小細胞肺癌の闘病記

小細胞肺癌の闘病記と情報共有です

11/24 朝

朝はなかなか、起きれませんでした。

しかしうすらうすら、起きるとカーテンを開けてといいました。

カーテンを開けて、少し外の空気を入れました。

意識は、まだ全然ありました。しっかりとまではいかないものの、食事をとるとか、薬を飲むとか、身の回りのことは、理解出来ている様子です。

朝食は全くたべられず、無理をしながら、ウィダーインゼリーを半分ほど呑んでくれました。

トイレなどは、食事、水分不足のせいか

尿意がなく、おそらくその代わりに頭から汗をひどくかいていました。

昼、ウィダーインゼリーをまた、半分。

看護師さんと、錠剤のくすりを飲ませましがうまく飲み込むことが出来ず、夜に飲みましょうということになりました。

看護師さん、先生の回診で、だるさが抜けないのなら、また、薬のスピードを早送りましょうという提案に、母はお願いしますと笑顔で答えていました。

24日の夕方、晩が、本当に母の命の、最後の元気のピークだったです。

 

 

11/23 夕方から夜

夕飯も、半分ほど食べていました。

腹は減らないよ、だけど食べとかなきゃなといっていました。

オカズにまで箸が進まず、白米を半分は食べていました。

ふりかけをかけていたら、あと一口くらい箸が進んだのかと、思いました。

意識のある母と一緒に食べた、最後の夕食でした。

コンビニの弁当とスープも一口ずつくらい、

美味いなとかいいながら、食べていました!

夕食後からモルヒネの倍増投与が始まりました。

夜間に二回トイレに行きましたが、

二回目のトイレは、自立歩行していましたが、

かなり、ヨタヨタ歩きになっていました。

 

この晩は、モルヒネが効きだしていたため、

お水を二回飲むのもやっとになっていました。

でも、話はまだ出来ていました。

対して水分もとっていないのに、やたらと頭から汗をかいているのが気になりました。

看護婦さんに、氷枕をもらい、冷えピタをして汗をかかないようにしました。

 

ソファベットを母のベットの横につけて、いつでも起きられる準備をしながら、

母の体をさすったり、手を握ったり。

自分の後悔もないようにしていたのかもしれません。

 

触れ合えるうちに、触れあってください。

あっと言うにまに、死に際、冷たくなります。

 

この日の母は、汗もかくし、熱いくらいの体温でした。

 

体が頑張っていたのだと思います。

 

 

 

11/23 朝

朝9時に、母にメールを入れました。

これから行くから、1時間くらいでつくよ。

いつもなら、返信が来ます。

その日は、電話が来ました。

メールなんか、やってらんないよ。

早く来いよ。今、〇〇が来てるんだよ。

気をつけて来いよ。

 

声が元気そうで、それが、より悲しくなってきて、行きのバスの中でもずっと泣いている情け無いありさまでした。

 

だめだな、全然涙がとまらん。こんな顔で会えないな。

 

本当は、後1時間遅くでて、東京駅のミート矢澤の弁当を買い、最後食べてもらうぞと思っていたけど。

 

早く会いたくて

 

ミート矢澤9月ごろに買っていけば良かった。

結局のところ、この日に買っていっても、食べきれない状態ではありました。

 

10時過ぎに、病院へ着きました。

母は、横にはなっていましたが、弟の叔父さんと楽しそうに話をしていました。

〇〇が、来てくれたんだよと、嬉しそうでした。

 

面会に来てくれていた叔父さんの昼食を心配するほど、意識も全然しっかりありました。

 

この日の夕方から、モルヒネが倍になりました。

 

 

 

 

11/22 緊急入院②

今思えば、当日夜に、母に怪しまれても会いに行って病院で一晩でも多く過ごせば良かったという後悔です。

この日は、モルヒネの投与もなく、比較的話す事は出来たのだろうと思います。

一人で、心細かっただろうな。

メールの返信もない。打つ気力体力がないんだろうな。

妹からの電話で、私もいろいろな気持ちが込み上げていて、気持ちが不安定でしたから、会いに行ったとしても、泣く事しか出来なかったかもしれません。

夜遅くに、会社の同僚が帰りに私のところへ会いに来てくれました。

お前、絶対泣くなよ。

そう言われて、我慢しました。

気持ちも落ち着けて、我慢したのを覚えています。

そうだよな。

私が泣いていたら、母も妹もみんな動揺しちゃうもんな。

我慢してても、泣けてきます。

どうにもならないのに、どうしようって思います。

後からの後悔なんてしきれないです。

思い出せば、涙も出るし、後悔もします。

誰のための涙と後悔なのかと思えば、自分の為だけだなと思いました。

今、思う事。

癌という、病気、治らない病気になったら、

元気なうちに、たくさん、最後まで本人にも楽しくしてもらいたい。

闘病の最中にでさえ、怒られたり、喧嘩したり、今まで通りのことや、思い切って贅沢な食事や、旅や。

最後までの一緒に過ごせる時間を、可能な限り一緒にいてあげてほしいです。

 

11/22 緊急入院①

前日に、訪問看護の観察がありその時にはもう、自力で立つのがやっとだなというくらいでした。

11/19に母と会いました。私の誕生日プレゼントを買ってくれていました。

今思えば、気怠い中、よく歩いて買い物をしてこれたなと思います。

11月の二週目以降、あっという間に体調が悪くなって行き、食事の量が手のひらほどのご飯しか食べられないまでになっていました。

息切れはしていましたが、肺が苦しいとは言っておりませんでした。

妹からの話では、肝臓の値が通常の10倍ほどの数値になっており、肝機能の低下が一番の原因ではないかと先生に言われたようです。

11月にはいってからは、目に見えてわかりやすいくらに黄疸が出ていました。

通常の日程だと、11/26に訪問看護の再訪予定でした。

病院から、11/22に電話が入り、心配なので入院の手続きをという事で、入院になったようです。

その際も、母は自分で入院の準備もし、最後までタバコを吸いながら、車に乗ったそうです。

妹に、泣いてないで、早くいくぞ。と、タバコを吸いながら話ていたそうです。

妹がお母さん、タバコ持ってく?

母は、吸えないかも知れないけど、一応持っていくかー。と、そんな会話しながらの緊急入院でした。

 

11/23-11/25 逝去まで

私が病院へ到着したのは、11/23の10時ごろでした。

リアルタイムに、自分なりの日記をメモしました。数字だけのところは、日にちか、時間です。あえて、訂正しません。

 

緩和ケアを選んだため、あっという間でした。

この間の詳細は私個人の思い出のようになる為、書くか書かないかは後で決めます。

口からの栄養と、分解できる肝機能が大きく関わっていると思いました。

 

以下になります。

 

 

 

11/22
入院
1123
朝は自分で歯磨き
トイレ。
夜間トイレ2回目
2回目は、手間の椅子とトイレをまちがえそうになる。2:45
お水二回目飲む
1124
なかなか起きれない。
朝食もたべず。
錠剤うまくのめそうにない。気合いでのんでる。
ウィダー半分のみ
1125
015 少し前から酸素。88から92へ。
声をだす。くるしいのかな
0530 熱38度、アイスノン。
830 起きず。

1412 逝去
お昼から洗髪してもらう。
洗髪後から呼吸が乱れる。