小細胞肺癌の闘病記

小細胞肺癌の闘病記と情報共有です

読んで下さっている方へお礼

丸2年も放置しているこのブログを読んで下さっている皆さま。

改めてありがとうございます。

 

やはり丸2年たっても、完全に自分の中で消化出来る物事で無いですね、、、。

 

ここを読まれている方は、当事者かまたはご家族かなと思います。

 

なぜ久々に書こうかなと思ったのは、志村けんさんの死去がきっかけです。

 

あんなに日本中から慕われている方っていないんじゃないかなと。

 

良くある関西風のどついたり、どなったりではなく。

毒舌風情でもなく。

 

誰も傷つけない笑いを提供してくれていた数少ない本物のエンターティナー。

 

志村けんさんの最期の状況をテレビで聞きながら、母の事を思い出しました。

 

家族に看取られられ、会いたい人には会えて。

 

悲し過ぎますね。

 

志村けんさんのお兄さんのコメントを見ていると、自分がとても幸せものだったんだとつくづく感じます。

 

今、この病気に限らず闘われている方、支えている方。

 

辛いと思います。

 

一日一日を大切に。

 

そして、悔いのない一日を送れるよう微力ですが、祈っています。

 

 

 

 

緩和ケア②

緩和ケアという選択は、今の日本では、尊厳死に近いところにある唯一の選択肢なのかなと、思います。

改めて、ご本人の小林麻央さんの闘病記事を読んだり、他の人の意見を読みました。

真央さんも積極的な治療をしていませんでした。

https://ganjoho.jp/public/cancer/lung/print.html

分かりやすい、肺癌のサイトでしたので転用致します。

9月、10月、11月の亡くなるまでの間、

飲み薬のモルヒネも処方されていましたが、なるべく母は飲まないようにしていた感じです。

それでも、毎週通い会うたびに、

声の力強さが減ってきたり、やや、ろれつが回っていないかな?という、時もありました。

母は、緩和ケアという選択肢を、痛みのない治療だと考えていたのかもしれないし、

投薬もされていたので、わたしも、そういう治療なんだと思っていましたが、

今思うのは、

本人の意志を尊重して、最期を楽にして見送るお手伝いなんだと思っています。

治療をしないのが、緩和ケア。

それが今の認識です。

 

積極的な治療を望んでいた私の当時の気持ちとは、今では考え方の幅が広がりました。

 

今思う事は、

 

私自身が、もう助からない命だと理解していたなら、緩和ケアもありだなということです。

 

私は、家族として、新薬の治験という選択で、

1日の命が3日にのびたのならと、

 

治験=人体実験ということを、私の中では正しい事だと理解しています。

 

治験をしてくれたから、いま、こんなに簡単にも薬が買えて、特に日本では、医療をしてもらえてると思っています。

 

過去に、治験をしてくだって、身を呈して新薬と向き合ってくださった方々に心から感謝をしています。

 

また、余命宣告の通り、約6ヶ月で亡くなった事を思うと、

 

5月から8月の抗がん剤治療も、時間的には母に無駄な時間を1人で、我慢させていたのかなと、今思います。

 

それは、母がとても元気で、肺癌だと言われても最後まで、タバコを吸い続け、ご飯も食べられる元気があったから。

 

入院などしたくない、抗がん剤もしたくないと言っていたのに。

 

もっと、母の好きな時間を過ごして貰えたら良かったのかと。

 

まだまだ、自分の中で母の死を受け入れられていないのでこのブログを更新する度に、そんな自分と向き合うことになるため、なかなか更新出来ずにおります。笑。

 

この様なブログでも、なにか、誰かに役立っているのなら嬉しいなぁ。

 

 

 

 

 

緩和ケア

初めては、緩和ケアという意味がわかりませんでした。

ケアというからには、何かするのかな?

治療するのかな?

 

私は治験推奨派だったので、意味がわかりませんでした。

 

緩和ケアは、母の最初からの望みでした。

 

苦しまないように。

 

家に居る事ができて、

 

元気なころとさほど変わらない日常が送れるように。

 

抗がん剤治療ワンクール後、緩和ケアが始まりました。

 

薬は出ていました。

 

痛み止め、カリウム調整剤。たいしたくすりは出ていませんでした。

 

9月から、11月20ごろまで、母は、家にいて、

家庭菜園をしたり、孫と遊んだり。

母の望む、時間を作っていただけたのが緩和ケアでした。

 

本音は辛い、体がだるい日もあったと思いますが、基本的に体力もある人でしたし、戦後生まれの働き者世代の人だったので、

 

本当に癌かな?

 

と、10月ごろまで笑いながら話していました。

 

2017/11/25 14:12 逝去

笑顔で、逝去致しました。

宣告から、半年、走りきった母の人生です。

治験の参加なども、私のエゴで色々やりましたが、結局は積極てきな治療をせずに、

ありのままを受け入れて、可能な限り、自宅で孫、家族と生きる。

最後には、緩和という、苦しまない選択をし、笑顔で、死んで行った母の事を、今は

最高に幸せな半年を送れたのだろうと思います。

正直言えば、モルヒネの量の調整で、あと、一日、二日は、話はもっとできたのかもしれません。

あと数日、一緒に過ごしたいと思うのは、私の未練や後悔ですね。

最後の入院から、まる二晩、遠方の私にも最後に看病をさせてくれました。

たった二晩ですが、これが、死期がいつだかわからない途方もないことであったら、

仕事を長期間休むしかなかったり、私自身の心も体ももっと疲弊していたことと思います。

最後まで、仕事を休むな、お母さんは元気にやっているから、仕事しながら、無理して茨城に来る事もないからと。

後悔ばかりが募ります。

本当にあれで良かったのか。

 

これからは、緩和ケアについて、書いていきます。

11/25 14時

洗髪が終わりましたが、なかなか呼吸が安定しなくなりました。

13時30過ぎ、先生がご家族皆さん、お集まりくださいと話されました。

いよいよです。

もう、これでホントに最後なのだと思いました。

父、妹、孫たち、母の妹、私。

それぞれ、最後まで声を掛けていましたが、目を開ける事はないだろうと、諦めていました。

 

14時10分ごろ。

 

母が一瞬、カーッと、目を見開きました。

 

とても怖いと感じました。

 

しかし、その後、ゆっくり目をつむり、

 

歯を見せて、ニコッ。ニコッ。と、二度ほど

元気な時の笑い方で、さほど苦しむ事もなく、

笑顔で、口角を上げたまま、静かに息を引き取りました。

 

 

 

11/25 10時ごろ

昨晩からのモルヒネ投与で、すっかりはなしもできなくなっておりました。

朝も目をしっかり覚ます事はありません。

朝食も食べることはできず、この時の母を見た時に、この状態がいつまで続くのか。

不安にもなりました。

頭からの汗が止まりません。何度か、枕に敷いていたタオルを交換しました。

朝の回診で、先生に

食事が全く取れていない、点滴などしないのかとたずねました。

先生は、人間の身体は、深刻な状況になったときには、体内の水分、栄養素で数日間は賄えること、肝臓が機能していない状況で、栄養素を与えても排出することが出来なくて、良い結果にならいと説明をうけました。

OS1や、お水などで口を潤す程度です。

たかが、2日でこんな状態になるとは。

水分をとらないと、だんだん、乾燥がひどくなり、少し口内が切れており出血もしていました。

唇、口内を潤す程度の水分、

あせを拭くことくらいしかできません。